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チャンプ的脳内おっきage♪ #43

オカタイ文章/元・学者の卵の血が騒いだ
題:オタクとは、文化ではない。

 先日オタク研究で米国某N大にて博士論文を書いている友人と議論していて、今日まで思い至らなかった(自分としては)革新的結論に至ったかも知れない。パラダイムシフトである。そして、それを語った瞬間、友人も「その通りだ!」と同意した。
 即ち。
 「オタクとは、文化ではない」
 Otaku, is not "a culture".
 某K大、大学院時代で文化人類学をかじっていた頃、米国某S大出身でドイツ系アメリカ人の指導教授から、文化とは学術的に「Attitudes, values, and beliefs of a certain community or a group of people」であると自分は教わった。また、Kim Ann Zimmermannは文化=cultureとは「The characteristics and knowledge of a particular group of people, defined by everything from language, religion, cuisine, social habits, music and arts」としており、ミネソタ大のCenter for Advance Research on Language Acquisitionによると「Shared patterns of behaviors and interactions, cognitive constructs and understanding that are learned by socialization. Thus, it can be seen as the growth of a group identity fostered by social patterns unique to the group」として定義される概念である。
 即ち文化という概念は、少なくとも何らかの「a certain group of people=特定の集団」を対象とした概念であり、その集団に共通する、同一性を持った特定の思考や行動の様式を総括して「なんとか文化」であると言える。
「オタク文化」というタームを口にする場合、我々はオタクという同一性を持った特定の思考や行動の様式を持つ集団を想定して考えていくこととなる。そして「オタク文化研究」を行うということは、何か特定の「オタク集団」なるものを対象とし、彼らを「オタク文化を代表し得る思考や行動の様式を持つ」と仮定することとならざるを得ない。
 それでは、果たしてそういった「オタク文化を代表し得るオタク集団」は存在するのだろうか?
 例えば、コミケはオタク文化を代表すると一般的に想定されやすい場であろう。それでは、コミケへ行けばオタクかと言われると、一生コミケどころか同人誌即売会へ行かず、それでも自らをオタクとして認識する人間は数多く存在する。また、コミケへ足を運ぶ人同士を比較しても、コスプレする人、写真を撮る人、同人を売る人、買う人、散歩するだけの人、食事に行くだけの人、オタク友達と再会するだけの人などがいて、また表現ジャンルもアニメやゲームだけでなく軍事、医学、社会、評論、あるいは本やゲームだけでなく写真集、模型やジオラマ、服飾、ガラス細工など、その種類は実に多岐多様に渡る。果たして、コミケへ行く人間を「コミケへ行く」という共通項を除いて「同一性を持った特定の思考や行動の様式を持つ集団」として定義し得るだろうか?答えは、明らかに否である。そもそもコミケの意義とは、その多様性にこそ存在するのであり、ましてやコミケに行かないオタクを含めて考えた場合、猶更それを同一的集団と考えるのは不可能である。それを理解すると、如何に「オタク文化研究」という言葉が虚偽であるかが解る。
 例の友人はいわゆるオタク的概念(としか、もはや表現のしようがない)の中で「聖地巡礼者」を対象にフィールドリサーチを行っているが、その友人によれば、同じ「とある聖地」へ向かう「巡礼者」でも、彼らを「同じ集団」として捉えられないと言う。彼らは確かに同じ場所へ向かうが、互いに目的も行動も違いすぎるし、それぞれの出身地・文化的背景も全く異なり、互いを同じ仲間として認識するような行動や会話もなく、ただその「とある聖地に行く/居る」という共通点を除けば、てんでバラバラな人たちでしか無いのである。それを「一つの文化的集団としてカテゴライズする」のは、あまりにも無謀である。彼らは文化的活動もするし、経済的活動もするし、政治的活動をする人もいるかも知れないし、文学的活動をも行うのである。そう考えると、オタク、たとえそれが聖地巡礼者という限定された各論的属性に考察を狭めても、それらを文化という大枠に含めてしまうのは不可能に思える。
 即ち「オタク」とは、もはや「文化」ではなく、例えば「政治、経済、文学、宗教、哲学、数学、化学、医学、生物学」みたいな大枠に連なるような、それそのものが一つの学問的体系を為す概念として捉えられるべきものであると、ここに考察するものである。結局「文化研究としてのオタク文化研究」や、それ以外にも「経済学研究としてのオタク経済学研究」「哲学研究としてのオタク哲学研究」などというものは、全くのナンセンスであり、それを敢えて為そうとするのであれば、それは「オタクという何らかの総論的概念に定義されるものの、ごくごく一部を切り取って、それぞれの専門分野で分析した局地的研究」に過ぎないのである。例えば、日本にあるお寺に属するコミュニティーの文化を研究しても、それは「仏教的な一つの地域研究」であり、かつて自分が大学院生として行った「宗教と文化の研究」という「両立する概念同士を局地において比較する、概念比較研究」にはなっても、全体としての「仏教文化研究」とはなり得ないのと同じである。
 要するに、もし「オタク」を研究・理解しようとするのであれば、それは一つの総論的概念としての「オタク」をどのように定義するのか、という次元から始めないといけないとここに考察するものである。
 現状では、100人のオタク研究家に「オタクとは何か」を問うと、100通りの答えが返ってくると推察する。未だにオタク研究というのは木を見て森を見ずの各論的研究に限定されており、今後はそれを総括した、例えば社会学、文化人類学などと対等な概念的集合性を持つ「オタク学」というジャンルを新たに規定していかないと、最終的に「オタクとは何か」のコンセンサスに辿り付かないし、オタク研究というジャンルそのものが不安定な土台に築かれた砂上の楼閣に近い、非体系的な散発的研究の集合体に終わってしまいかねないという可能性を危惧するものである。そのため、今オタク研究という学術分野で必要とされるのは、如何にしてオタクという概念に対し一定の共通認識が得られる意味付け、定義付けを構築して行くかであり、また、それが得られるためにはどのような研究を遂行して行くべきかを考案して行くことと個人的に思うところである。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #42

言語、ツールvsコミュニケーションスキル

 トリリンガルな俺は、どこの診療科行っても「外国人が来た=俺に
任せる」的な認識となり、おかげで沢山貴重な経験を積ませて頂けて
います。しかし英語や中国語が出来るからと言って、安直にイコール
外国人との信頼関係を容易に築けるってモンではありません。日本人
同士と同じように、あるいはそれ以上に、表現に気を遣い、あれこれ
考えながらやらせて頂いてます。
 即ち、言語能力とコミュニケーションスキルは全くの別物。日本人
同士だと皆さんラポールに腐心するのですが、外国人となると「とり
あえず言葉話すことが出来れば、患者さんも安心する」程度の認識に
なってしまう現象、これ、医療に限らず色んな場面で身をもって経験
して来ているから言うのですが、この前の京大の学長先生同様、日本
では「外国語=ツールにすぎない」って認識が強く、国内にて外国人
とのコミュニケーションスキルを磨く、っていう方向での発想が中々
定着しないんですね。結局内容のある外国滞在経験をされたような方
でなければ、真の意味での外国語コミュニケーションの重要性が理解
されず、日本の発信力は強まり難いと思うのでした。
 医療の現場でも、中々思い通りに治療が進まなかったり態度が理解
しにくい外国人を「困った不良外人」って決めつけないで、どうして
相手はそのような行動や表現を行うのか、この「Why?」の部分を
考えて頂けるような風潮が根付いてくれればなぁと願うものです。
 もっと、外国の文化や、あるいは単純に外国人の口調、表情、表現
の仕方等に注意するような基礎教養教育が高等教育レベルで行われて
欲しいものです。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #41

国語力も大事だけど

京大の山極学長が、こんなことを語ったそうだ。

「日本人は国語=日本語で考えよ」
「英語はツールでしかない」

果たして、その考えは正しいのか?

山極学長は学者として、自身の御専門とは異なるハタケに関してコメントを行うことの危険性をどれほど認識されているのだろうか?彼は言語学をどの程度理解した上で、このような考えに至っているのだろうか?

言語学以前に、この先生は論理的思考力と国語力とを混同していないだろうか?国語力に秀でていないと、論理的思考力が要求される分野、例えば数学やプログラミングで世界に打って出られる人材にはなれないのだろうか?

勿論、日本古来の良さを世界に発信するという意味では、国語力を重視するのは大変重要である。その理由を、この先生は論理的に説明出来るのだろうか?

俺なりの説明を書かせて頂くと、言葉とはその国家や地域、人間集団の文化史と共に発展や変遷を遂げているため、ある集団の文化を理解するためにはその集団の言葉に習熟していなければならないからである。日本語は日本文化や日本精神を包含しており、イギリス英語は英国文化や英国精神を包含しており、そして、大阪弁は大阪人の文化や精神を包含した上で成り立っているのである。大阪弁が喋られないと、大阪人を真に理解することは不可能だということである。

英語でも日本語でも中国語でも思考出来る俺の個人的な感覚で恐縮だが、実際、俺は英語で考え事をするときと、日本語で考え事をするときと、中国語で考え事をするときとで、同じトピックについて考えているのに思考経路が微妙に異なることが多い。また、日本語で書いた文章を英語に直訳していくと、どうも勝手がおかしいと感じることも多々あり、結局異なる方向から意訳中心で構築するのを余儀なくされることが多い。これらの現象は即ち、それぞれの言語がそれぞれの文化的背景からの影響を強く受けていることの証左であると強く感じる。

ということは、いくら高い国語力を持っていても、英語を「ツール程度に」しか修得できていないような人間は、日本の良さを例えばイギリス人を相手に正確に理解出来るように発信することなんて到底不可能と言うことである。ここは絶対に双方の言語と文化に同時に精通した人材が必要だということであり、そのため外国語教育や留学の推奨は国際競争力を増すためにも非常に好ましいのである。

ここまでの内容から考えると、世界を相手に競争力を高めると共に日本の良さを発信していくには、国語力のみを重視していたのでは到底不足であり、鎖国的な匂いすら漂わせた一種の甘えですらあると俺は思う。この先生の言葉に影響され幼少期からの外国語教育や留学を否定するような輩が増えてしまわないように、切に願う。

国語で考える日本人が居ても、イギリス英語で考える日本人が居ても、アメリカ英語で考える日本人が居ても、大阪弁で考える日本人が居ても、2ちゃんねる語で考える日本人が居ても、数式で考える日本人が居ても、プログラミング言語で考える日本人が居ても、良いのである。むしろ、居た方が良いのである。

京大の学長という極めて社会的影響力の強いポジションにいらっしゃる方が語る内容としては、熟慮熟考を経ていない、国益を損ないかねない甚だ無責任な放言ですらあると思う。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #40

日本の外科

日本で外科志望の若い医師が減っているという話を聞くが、さもありなん、という気がする。この国で第一線の外科医を目指すには、人並み外れた体力と熱意、プライベートを犠牲にするというよりもプライベートと仕事が完全にシンクロしていることが前提となる。朝から晩まで手術室に入り、オペ後の全身状態など病棟業務を夜通し行い、病院で朝を迎える、というスタイルが好ましいとされる。ワークライフバランスが叫ばれ、そのような滅私奉公が推奨されなくなった今でも、現実として多くの外科医は全てにおいて仕事を優先するライフスタイルを自ら進んで送っている。そうまでしないと、自分の技術が上がらないのだ、上手くなりたいからだと彼らは語る。当然、難しいオペがあると聞くと、他の仕事を放り投げて我さきと手術室に入り、周囲よりも早く手術台の好位置を占領し、あわよくば第一執刀医からその座を奪おうとする。

職人としては、至極正しい姿勢である。そして、その正しさゆえに、余程外科に対して情熱を持つ夢と希望と自信とガッツと周りを蹴落としてまでオペ室に入ろうとする図々しさと患者の生命予後やQOLを無視しオモチャにしてまで自分の腕磨きを優先しようとする我儘さにあふれた特異な若人でなければ、おいそれと自ら外科を選ぶ感性は芽生えにくい。

おまけに給料もダントツに高いというわけではない。そもそも勤務医の場合勤続年数で基本給が規定される場合が多いし、時間外勤務も多くの場合上限が設けられているので余程当直を増やさない限り差は生まれにくい。開業の場合でも手術を行うのなら患者当たりの拘束時間が長いこともあって、今をときめく美容整形は当然言うに及ばず、精神科のような「切らない」診療科にすら売り上げが劣る場合がある。

そういう事情も相まって、志望する若い医師が減る以上に、さっさと第一線から引いてしまう外科医が増えるのも、さもありなん、という気がする。

そういう意味で、我が国の第一線の外科というのは、数少ない極めて強靭で優秀なエゴイスト達により支えられていると言っても過言ではない。そして「これくらい朝飯前」と嘯くエゴイスト揃いだからこそ、体制を変えようとする動きも少なく、次の世代に対しても自分たちと同じであるべき、そうでないと大成しないという要求を依然継続していく。

欧州圏では、外科でも他の診療科や職種と同様に、あるいは外科という患者の生命を守る最前線のポジションだからこそそれ以上にワークライフバランスを重視しているそうだ。彼らはたとえ手術の途中であっても時間が来たら次の勤務者にバトンタッチしてさっさと自分の生活に戻る。日本人が「目先の仕事」に対して強い責任感を持っているのに対し、欧州のプロは「自分のパフォーマンス」に対して強い責任感を持つ、という違いだと言われる。オーバーワークでパフォーマンスが落ちてしまっては患者に対して最適な治療を施せない、というのが向こうの考え方である。日本人は根性論・精神論でそれを乗り越えようとするが、向こうは適切な休息やプライベートの充実によって合理的にモチベーションを必要な時にピークに持っていけるようにするのだ。そういう考え方が、我が国の外科医療の現場、そして制度作りを行う側にも欠けているように思える。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #39

医療倫理の考え方

 以下は、俺が医学部6年時代に書いたマッチング用小論文です。その後結局国試に落第したので実際の採用とは無関係になってしまいましたが、個人的に結構気に入った文章が書けたと思っているので、ここで紹介してみます。
 自分用回顧みたいなモンなので、ヒマな方のみ、良かったら御笑覧下さい☆
 なんつーか、実に俺らしい内容かも(ぉ
 「結局具体的には何も答えてねぇじゃん!」ってあたりがねwww

ーーー

出題:出生前診断に関する課題記事を読み、どのように思うか医師・研修医の立場から意見を述べよ。
 → 課題記事の内容は紹介出来ません。

以下回答本文

 医療倫理とは常に三つの要素の狭間でそのモダリティ(概念的範囲)が揺れ動く、ダイナミック(変動的)な概念と考えられる。
 即ち、1:生命倫理、2:社会制度、3:患者側の希望・要求の三つである。
 生命倫理とは、その地域・国家ごとの文化・歴史・宗教によって共通認識が規定される。ある医療的事象、例えば今回提示されている出生前診断が生命倫理に抵触するか否か、それに対する判断は現場における医療倫理の在り方に直結する。また、患者側の出身が異なれば、当然当該事項に関する倫理観も異なり、医療側が判断を下すに当たって無視出来ない要素となる。
 社会制度、あるいは法制度は、しばしば医療倫理の在り方に様々な制約を課す。制度が変わり、それまで行うことが許されていた医療が禁止されることもある。医療側または患者側が倫理的に問題ないと考えていても、制度として禁じられていればその行為を行うことは法を犯すこととなる。
 患者側の希望・要求は、患者の苦痛を除く医師の立場から重視せねばならない要素である。出生前診断を強く希望する患者に対し、それを叶えないことは即座に患者の苦痛を増大させ、医師の社会的役割に反する状況を招く。
 以上三つの要素は時として相乗的に、時として相克的に機能し、医療行為・医療的判断の一つ一つに影響を及ぼす。その行為・判断がそれぞれによって規定された「その場における医療倫理のモダリティ」を逸脱した場合、医療側はミスをしたと判断される可能性が生じ、場合によっては社会的制裁を被ることとなる。
 医師・研修医の立場から、出生前診断など医療倫理の問われる正答の存在しない状況でベター、あるいはベストな判断を行うには、常日頃から上記の三要素を意識して診療に当たるのが理想と考える。
 即ち、現場地域や患者個人の(文化的・歴史的・宗教的)背景を知り、現行の社会制度をチェックし、患者の気持ちに寄り添い、こうした情報収集のアンテナを常時開いておくことで三者のバランスが釣り合う最善の判断を模索し続ける姿勢を保持できるようにして行くのが良いと考える。

以上
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チャンプ的脳内おっきage♪ #38

お医者様は、居ませんか?

6割もの医者が航空機内で「お客様の中にお医者様はいらっしゃい
ませんか?」と聞かれても名乗り出ない事実が判明
http://netgeek.biz/archives/39059

 ・・・こんなニュースがある。
 内容としては、半数以上の日本人医師が日本の航空会社の飛行機
搭乗中に自分が医者であるのを隠している、というものだ。
 アメリカやカナダには「善きサマリア人の法」というのがあり、
善意や好意で誰かの救命活動を行った場合、仮に失敗して死なせて
しまったとしても罪に問われることは無い。でも、日本だと法的な
責任が生じてしまう。だから、急病人を助けるためお金が貰えない
ボランティアを申し出ているのに、賠償金を背負うリスクがあると
いう酷い目に会わないためにも、自分の身を守るため身分を隠して
飛行機に乗る人が多いのである。
 というか、実際飛行機で誰かが倒れたとしても、医療器具や環境
が揃っていないのだから、現実問題として如何なる名医でも助ける
のに必要な処置が出来ない可能性が高い。それで告訴される可能性
が生じるのだから、割に合わなさすぎるだろう。
 飛行機だけではない。鉄道も同様だ。
 例えば新幹線のぞみ号で東京から大阪へ向かう途中で、神奈川県
から静岡県に差し掛かったところで、初めて柿ピーを母親から与え
られてた2歳半の女児が突然に呼吸困難に陥ったとしよう。そして
「お客様の中にお医者様はいませんか」という声に応じ、偶々その
席の近くで景色を楽しんでた臨床研修医の俺が(応召法に基づき)
「はい、行きます」と応じたとしよう。
 俺は最初にピーナッツによる気道の閉塞を疑い、ハイムリッヒ法
や背部叩打法でピーナッツを叩き出そうとするが、効果は現れず、
そうしているうちに女児の全身に紅斑が出てきたとする。
 アナフィラキシーショックだ。
 それによる、気道閉塞だろう。
 俺の診断を裏付けるように、女児の呼吸困難が超急速に重篤度を
増し、誰の目から見ても命の危険があることは明らかな事態にまで
進行を見せていく。
 ここで残念ながら、JR東日本の特急車両には7種類の医療道具
(聴診器、血圧計、パルスオキシメーター、ペンライト、舌圧子、
アルコールシート、簡易手袋)こそ常備されているものの、救命に
必要なボスミン0.3%や生理食塩水+点滴キットなんて無い。
(http://www.huffingtonpost.jp/hogan-kishi…/jr7_b_4820451.html 参照)
 次の駅は、名古屋。
 そこまで持たせるようにと、偶々携帯していたマウスピース経由
で人工呼吸するも胸郭の上下は確認出来ず、気管切開が必要と認め
られたが、メスや他の刃物などを携帯しているわけがなく、ペンで
喉を刺そうとすると半狂乱の母親に「なにするの!人殺しッ!」と
阻止されたため、必死の心肺蘇生を続行するも、次の名古屋までは
まだまだ時間が掛かり、そうこうしている間に心肺停止となって、
AEDもasystole(心停止)ではウンともスンとも言わず、遂には
死亡に至ってしまったとする。
 そして、名古屋駅。
 女児の母親は泣き叫びながら駆け付けた鉄道警察(あれ?救急隊
じゃなくて?)に「この人お医者さんなのに娘を見殺しにしただけ
でなく、後ろから抱き着いたり(ハイムリッヒ法)、信じられない
ことにキスしたり(人工呼吸)、果てには喉をペンで刺して殺して
しまおうとしたんです!」って訴えたとしよう。
 アッと言う間に俺は医師法違反だけでなく殺人罪、児童虐待罪、
公然猥褻罪、児童ポルノ法違反(笑)に問われ、仮に冤罪と解って
無罪放免となったとしても、長い間奇妙な名声が付いて回って俺の
医者人生を大きく狂わすだろう。
 以上のシナリオは少しでも勉強してる人なら解ると思うが決して
確率の低いことではなく、ピーナッツアレルギーによる急性の発作
という、ごくごくありふれた病態であって、仮にそれが電車の中で
発生したのなら、一人の若き医師の将来を容易に奪ってしまいかね
ないという事態が、今の日本では有り得る、ということなのだ。
 つまり、今の日本で医療に従事する我々に取っては「情けは人の
為ならず」以上に「情けは自分の為ならず」と言える事態であり、
だからこそ医者の中には応召法の免罪事項に当てはまるよう、自己
防衛手段として特急や飛行機に乗る際はお酒を飲んでおく者も多く
いらっしゃるのだ。つまり、ついでに言えば多くの医師の肝機能を
悪化させてい原因でもあると言えるのだw
 ゆえに、俺も切に、切に善きサマリア人の法が日本で整備される
ことを望む。人助けすること自体に関しては、我々には何ら抵抗が
無いどころか、そういう仕事に従事している以上、むしろ本来なら
率先してやりたいと思っているくらいなのだから。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #37

二ヶ国語で雑考/結婚について

 我常聴現代年軽人説「人幹麻要結婚、喜歓就在一起、不喜歓了就
分開阿」。昨天、関於美国政府決定同性婚姻合法、在政府声明文裏
有非常値得参考的一個答案、也是符合我個人的想法。

 よく若い人が「人はなんで結婚するの?好きなら一緒にいて、
飽きたら別れればいいじゃん」って言うのを耳にします。昨日、
アメリカ政府が同性婚の合法化を決定した声明文の中に、一つの
大変参考にすべき答えがありました。個人的にも、これと同じ
考え方だったりします。

"No union is more profound than marriage, for it embodies the highest ideals of love, fidelity, devotion, sacrifice, and family. "

/関於人和人做伴、没有任何関係可以比婚姻更深奥的、因為婚姻
包含愛情、貞節、献身、犠牲、家族所有的最高理想。

/人と人との和合において、婚姻よりも深い関係は存在しない。
何故なら婚姻とは愛情、貞節、献身、犠牲、家族における最高の
理想を包括するものだからである。

 我相信、這不是在説婚姻即就能達成這些理想、但若情人伴侶想要
擁有最円満理想的互相関係、婚姻可説是必須的最低条件、也就是説
両人一起努力建立理想的未来、是従結婚那刹那才算是真正的開始。
所以才可以説、在情侶関係中、婚姻是最深奥、最特別的愛情関係。

 これは婚姻=理想の関係である、と言っているのではなくて、
もし愛し合う二人が最も円満で理想的な相互関係を擁したいのなら
婚姻というのは最低限必要な条件であり、二人の理想の未来を共に
努力して築いて行くというのは、結婚の瞬間からがようやく本当の
スタートラインであると言っているのだと思います。だからこそ、
恋愛において婚姻こそが最も深く、最も特別な愛の形だと言えるの
です。

 結婚、我認為、就是所有愛的証明当中最純粋、最尊貴的。所以、
付属於婚姻最應該生起的感情、除了愛之外、就是感謝。離婚、
不只是捨棄愛情、也可説是忘了感謝之念。

 結婚とは、総ての愛の証の中で最も純粋で、最も尊いものだと
思います。だからこそ、婚姻にまつわる感情として愛情の次に最も
生起すべき感情は感謝だと思うし、離婚とは愛情の棄却だけで
なく、感謝を忘れたということでもあると言えるのだと、そう
思うのです。

 ・・・這是、在天主教系美国学校長大的我的看法。

 ・・・という、ミッション系アメリカンスクールで育った俺の
考えでした。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #36

三ヶ国語で雑考/ペース

 Some people are hyper, and others are relatively hypo.
 Some people can aim at something without being attracted to other things, while others would have to stop and be distracted by seemingly unnecessary amusements before regaining their right tracks.
 However contradicting it may seem, I believe everyone is trying their best, no matter how their performance seems to be.
 As the Chinese proverb says, "Thirty years may turn the course of the yellow river, and the town at the east bank may even turn into the the town at the west bank; there's no laughing at people who wear torn clothes today."
 How can you despise people who seem to be lagging behind?
 You'll never know what they will become, for good or for bad.
 Only one thing is certain.
 Nobody ends up unchanged.

 有些人積極勇進、其他人比較慢歩。
 有些人可以直直向前走、但其他人必須常常停下来被一些好像看起来不需要的事情引誘、之後才能回復應該走的路。
 也許聴起来有点矛盾、但我認為大家都在盡量努力、不管表現好壊、看起来認真或随便。
 古人曰「三十年河東転河西、莫笑窮人穿破衣」
 就算是対弱勢落伍的、也不可瞧不起他人。
 不管是往好往壊、人的将来是不可予知的。
 総結、只能説一件事情。
 没有人一輩子都没改過的。

 ある人はイケイケで、他の人はゆっくりマイペース。
 ある人は目標に向かって脇目も振らず歩けるが、他の人は一見必要でなさそうな物事に誘惑され、ちょっと立ち止まって寄り道してからでないと元の道に戻れない。
 少し矛盾があるように聞こえるかもしれないが、デキの良い悪い、物事に対して真面目かオチャラケているかと関係なしに、俺はみんな精一杯やっているんだと思っている。
 かつて漢人いわく「三十年あれば、黄河の東岸にあった町が西岸の町になっていたりもする。今日ボロを纏っている人を嘲笑うことなかれ」と。
 善きにせよ、悪しきにせよ、人の将来は予知出来ないものだ。
 一つ言えることは。
 一生変わらないままでいる人間など居ない。

ーーーーー

 When I try to express something in three different languages, it seems inevitable that the taste behind these messages differs from each other...

 用三種語言表達同様内容、我総覚得毎次背後微妙的感覚、思考方式互相有相差、、、

 三か国語で同じ内容を表現しようとするとき、いつも互いに微妙なニュアンスや考え方などが異なる気がする、、、
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チャンプ的脳内おっきage♪ #35

歴史の闇、パート2

 かなり久々の、脳内おっきageである。
 このカテゴリーが存在していたこと自体を憶えている方は、もはや
そう多くはあるまい。ましてや、以前「歴史の闇」という駄文記事を
書いたのを憶えている方は、もうほとんどおられるまい。まだ20代
の頃に書いた稚拙な雑文だが、今回敢えて再び皆様にご紹介したい。

チャンプ的脳内おっきage♪ #23
「歴史の闇」
http://zenon.jugem.cc/?eid=2833


 さて今回、短い内容ながらもまた一つ「歴史の闇」を紹介したい。
前回同様この話は事実かも知れないし、あるいは単なる俺の妄想かも
知れない。しかし俺は敢えてこの与太話を当ブログという電子の海の
片隅に埋め込んで置きたいと思うものである。
 まず、以下のニュースをご覧頂きたい:

清朝最後の王女、愛新覚羅顕キさん死去 
「東洋のマタハリ」川島芳子の妹
ttp://sankei.jp.msn.com/world/news/140526/chn14052620280010-n1.htm

 産経ニュースということで、上記の記事は勿論事実であり、彼女の
死去を以って清王朝の王室はこれで断絶したと言える。
 少なくとも、公式の「歴史」においては、今年が清王朝王族絶滅の
年であるということだ。僭越ながら、亡くなられた方のご冥福を祈祷
申し上げたい。
 ・・・しかし、実は傍流ながらも清王朝の王室は途絶えておらず、
その血脈が台湾で受け継がれているのだ、と書いた場合、これを信用
する方は果たしておられるだろうか。
 ・・・かつて清王朝に「八旗」と呼ばれるものがあった。
 Wikiペディアの説明が簡潔なので引用すると:
 「清の始祖であるヌルハチが、満洲人の前身である女真を統一する
過程で女真固有の社会組織を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成、
掌握したことに始まる」
 ・・・というものだ。
 その内訳は、最初は黄旗、白旗、红旗、蓝旗の4つだったが、後に
正黄・鑲黄・正白・鑲白・正紅・鑲紅・正藍・鑲藍の8つに増加し、
以って「八旗」と呼称された。中でもとりわけ黄旗に属する者は王族
として知られている。
 清王朝滅亡の際、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀は日本に庇護され
傀儡王朝である満州国を立てるが、後に満州国も無くなり身柄を中国
に引き渡されて晩年まで過ごしたのは歴史に書いてある通りである。
 しかし、全ての王族が彼と共に中国に渡ったわけでは無かった。
 中には、中国東北地方を中心とした動乱を避けて台湾に渡った者も
居たのだ。傍流ながら「黄」姓を名乗ったその一家は、最後に一人の
女性を残した。
 「黄」とは、即ち八旗の「黄」に由来すると思われる。
 この女性の両親は早々に亡くなり、若くして天涯孤独となった最後
の黄氏は出家することとなった。
 その際、彼女は一族に代々仕えてきたとある年老いた女性侍従から
歴代の清朝皇帝の名前が記された数々の細長い証書を渡され、これは
清朝の王族の証であり、その血を引く者が末代まで秘匿し守り抜いて
いかねばならぬものだと言われたという。
 以降、彼女はその証書を祖先の依代としてその菩提を弔い続ける。
後に黄氏は還俗し、一般の男性と結婚して子を設けるが、依然証書を
肌身離さず持ち歩き、絶えず読経を続けて既に歴史の彼方へと去りし
一族の供養としているという。
 どうやら黄氏はこの証書を下の代へ受け継がせる気は無いそうで、
自らを王族最後の一人として密かに墓まで持って行く覚悟だそうだ。
 ・・・以上が今回紹介したい与太話である。
 実はこの黄氏、中々にエピソードの多い人物で、例えば出家年次が
古い事から還俗した今でも台湾佛教界では長老の一人として遇されて
居るだとか、若い頃台湾独立運動に身を投じて政治の世界にも今なお
太いパイプを持っているだとか(実際、李登輝元総統とは電話一本で
いつでも会えるそうだ)、その夫と共に立ち上げた会社が今では台湾
で5本指に入る大手ゼネコンだとか(リーマンショックで大損したが
何とか立ち直っているそうだ)、語り出すとどんどん常人場馴れした
話が出てくる凄い人間である。
 そして実は血のつながりこそ無いが、俺とも密接な関係を持つ人物
である、なんて書いたら皆様はこの与太話を信じるだろうか。または
単なるホラ話として受け止められるだろうか。勿論、まるで嘘八百の
中に一滴の真実を垂らしているかのような、ホラ話の王道を地で行く
体裁で書いているわけだが、受け止め方は当然自由である。
 あるいは、彼女は王族ではなく、単に王族に養育されていた孤児で
あり、彼女が一族に長年仕えてきた侍従というのが実は王族だった、
それを隠しつつ、しかし彼女が可愛がっていた俺のため何かしら王族
の証みたいなものを伝えて置きたかった、なんて邪推すると、如何。
 ともかく、清朝の血筋は実は台湾にも伝えられていた、というのが
今回俺が「歴史の闇」として記しておきたいことである。
 信じるか否かは、皆様次第としておこう。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #34

まどマギに見る、人類救済における思考ベクトル

 以前「まどマギには救済がない」と書いたが、それをここで
訂正させて頂きたい。
 確かに真正面からの救済=戦いや悲しみの無い平和な未来は
構築出来ていないが、存在の連続性を軸に考えた場合、救済と
言える側面を持っているように思えたからだ。
 例えば、宇宙はビッグバンで始まるが、これは同時に宇宙が
やがて成長限界点に達し、最後は収束して消えてしまうという
ことを意味している。
 そうなると、そんな遥か遠い未来まで人類が存続していたと
しても、やはり最後は滅びの運命しか待っていない。
 ここで人類救済を考えるにあたり、2つ考え方がある。
 収束して消えることを阻止しようとするベクトル。
 そして、ビッグバンが収束した後で起こるであろう、その次
のビッグバン発生後に構築される新たなる宇宙に移動する方法
を模索するベクトル。
 前者は、絶対的な物理法則に対する真正面からの解決。
 それは、決して成立しないであろうと思う。
 後者は、その法則を前にパラダイムシフトを完成させ、解決
ではなく変化を以って答えとする姿勢。
 それは、人類救済において在るべき思考のベクトルであると
俺は最近思い至った。
 ビッグバンだと遠大すぎて解り辛いだろうから、別の例を。
 我らの太陽は、最終的には寿命を迎えてどんどん肥大化し、
そのうち地球はそれに飲み込まれてしまうだろう。そうすると
地球上の人類は生きていられない。
 それに対し、太陽の延命を試みたり、熱を遮断しようとする
のが真正面からの解決だろう。そして、それは一時的時間稼ぎ
こそ可能かも知れないが、根本解決ではなく、いつかは限界が
訪れてしまうだろう。
 人類を延命させたいのであれば、地球から飛び出して、他の
住める惑星を探す方向で考えるべきである。それなら太陽肥大
という運命とバッティングすることなく、それと全く異なった
理論系で人類救済が出来るだろう。
 そうすると地球人類は確かに消滅するが、人類の存在として
連続性を保つことは出来る。それは確かに真正面からは救済と
言えないが、存在の連続性そのものに対して救済となりうる。
 つまり、世界の在り方そのものがこちらの存在を消滅させる
ものであるなら、それと正面から抗うのでなく、こちらの存在
を変質させる答えも模索されるべきだと思う。
 まどマギでも、あの絶望に満ちた世界観自体は最終的に健在
だったが、まどかは少なくとも魔法少女vs魔女という構図を
再構築し、穢れたエネルギーや死んだ魔法少女の霊魂(?)を
別の宇宙に転送するという方法(異なる時間軸への転送?)を
採ることで、元いた世界での存在は消滅しているが、魔女への
転化という魔法少女としての予定された消滅を無くすことで、
魔法少女という存在の連続性自体を保つことに成功している。
 それは、ある意味では救済と解釈出来るのである。
 不可能な命題を不可能と悟ったとき、人間は敢えて抗わず、
別の道を模索することで先が開けるかも知れない、という話。
 そうしたテーマを、創作者の思惑が何処にあるにしろ、あの
作品の中で(勝手に)見出すことが可能だと思った。
 ・・・まぁ、抗い続けるのも物語として美しいんですけど。
 不可能と不可能と決めるな!俺はDPの世界を更なる高みに
持って行くんだ(何の話だw)!
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