チャンプ的脳内おっきage♪ #64
2024.02.25 Sunday
「冤親債主」について
台湾佛教を背景にする家族と付き合うとき、たまに「冤親債主(おんしんさいしゅ)」という言葉に出くわす。これに関して、過去に人類学者の卵として宗教と文化の関連する分野で研究していた見地から、これまで見聞きしてきた知見を整理して知り得たところを解説したいと思う。勿論、佛教には八万四千の法門ありと云い、自分がここで記すのはあくまでも自分によるひとつの解釈であり、宗派や経験、体得したものが違えば異なる解釈が生じ、そしてそれらは互いに否定するものではないことを追記しておく。
冤親債主という言葉は、大般涅槃経という釈迦の入滅を叙述した経典に記載された概念である。冤とは恨みを持つ者、親とは親愛の感情を抱く者、債とは貸しのある者、主とは借りのある者を指す。輪廻転生を説く佛教において概ね前世に遭遇したであろう、そのような様々な関係性を指す概念だが、広義で今生での関わり合いも含めて語られることもある。今まで気が遠くなるくらい輪廻転生を繰り返したであろう我々には、それこそ気が遠くなるような関係性の複雑系が存在しており、それらを総称して冤親債主と呼ぶわけである。そうした冤親債主と今生で再会したとき、それぞれの前世での関係性が今生での人間関係に影響するのだ。だからこそ我々はなるべくそうした悪い関係を清算し他者と良い関係を築くことで来世を少しでも良いものにしていきたい、という考えがある一方で、佛教徒が目標とする輪廻転生からの解脱には自分が誰かの冤親債主になってしまうほどの強い念(即ちこの世への未練、執着となるもの)を抱かないよう心を修めて行かなければならないとする考えもある。
佛教は因果応報を説く。良い行いには良い報いを、悪い行いには悪い報いを、ということである。しかし生きていて、必ずしもそんな単純には行かないのは誰もが思うところだろう。ただ単に運が良かったり、悪かったりするように感じられることなど幾らでもある。しかし物理学のように全ての物事に因果が存在すると考えるなら、単なる偶然に見える物事にも何か理由や意味があるかも知れないと推論するのが自然となる。そこで前世因果としての冤親債主という考え方で説明されることがある。
前世以前に関係性があったものの今生を共に出来なかった冤親債主は、現世において我々の生活に様々な影響を及ぼすものと信じられている。なんとなく上手く行かないときは、もしかしたら自分に恨みを持つ者が自分に取り憑いていて、足を引っ張っているのかも知れない。なんとなく上手く行っているときは、もしかしたらご先祖様(これも冤親債主と言える)が守ってくれているのかも知れない。冤親債主は何も人間とは限らない。動物や、あるいは目に見えない霊的な何かもこれに含まれることがある。世の中のありとあらゆる関係性が様々な形で人生に影響を及ぼし合い、終わりのない因果の糸がより複雑に絡み合って未来永劫続いていく、というのが佛教的宇宙観とも言える。
台湾では、道教と佛教が同時に信仰されることがある。道士は悪い霊を追い払ってくれるが、除霊が困難なものに「因果業」と呼ばれるものがある。払っても払っても、それはその人のもとに戻ってくる。まるで借金取りみたいに返済が完了するまで何度でもやってきて、体調を崩したり運を低下させたり疫病神のように振る舞うわけだ。これを佛教的に表現するなら、冤親債主の中で冤の前世因果(冤家とも言う)なのだろう。恨みの力が強ければ強いほど、それはいつまでも付きまとってくる。また、ひとつの冤家が取り立て終えて満足して居なくなったとしても、また別の冤家が現れて違う取り立てを始めることもある。人生何をやっても上手く行かないような人間は、きっとそうしたものが背後に沢山あると考えれば、ひとつの理屈にはなる。
それでは、冤家にはとことん邪魔されなければならないのか。佛教的に、そこから逃れるには「回向(えこう)」が大事だ、ということになる。回向をなるべく簡単に説明すると、自分の積んだ功徳(≒功績)を自分以外の誰かに(または森羅万象に)お返しする、というものである。例えば善行を積んだとして、その功を自分が誇示するのではなく、これはみなさんのお陰なのでみなさんの功績なのですと譲る、その心がけが回向と言える。つまり良い行いによる徳を自分ではなく冤家にお返ししますよ、という意識を続けることで、冤家の恨みを少しずつ解かせるかも知れない、ということである。気が遠くなりそうなことだが、佛教徒の中には、例えばお経を読んだり法会に参加したりして、それで積まれた功徳をすべて冤家にお返ししようとする向きもある。しかしこれが功利心のような意識で冤家の恨みを晴らすためにやっているんだ、という念が強すぎる状態でお経やお祈りをやられてもあまり意味が無いとも言われるのだから、難しいところである。また、実際は自分もまた相手にとっての冤家だったりするのだから、中々そんな相手に対して功を譲るような気持ちになりにくいこともある。それも含めて、心持ちからよくよく修めて行くのが佛教徒が修行と呼ぶものであろう。
地蔵菩薩は「地獄が空にならなければ自らは成仏せず」というコンセプトだが、全ての時空に存在する全ての冤親債主が冤親債主でなくならない限り実現しないのだから、まるで不可能なことに挑戦するような壮絶さを感じるのは自分だけだろうか。
以上、帰依法名を2つも頂いておいて別にそこまでガチな佛教徒ではないと嘯くおいらの浅い見識でした。御笑覧頂けたのであれば幸いです。
台湾佛教を背景にする家族と付き合うとき、たまに「冤親債主(おんしんさいしゅ)」という言葉に出くわす。これに関して、過去に人類学者の卵として宗教と文化の関連する分野で研究していた見地から、これまで見聞きしてきた知見を整理して知り得たところを解説したいと思う。勿論、佛教には八万四千の法門ありと云い、自分がここで記すのはあくまでも自分によるひとつの解釈であり、宗派や経験、体得したものが違えば異なる解釈が生じ、そしてそれらは互いに否定するものではないことを追記しておく。
冤親債主という言葉は、大般涅槃経という釈迦の入滅を叙述した経典に記載された概念である。冤とは恨みを持つ者、親とは親愛の感情を抱く者、債とは貸しのある者、主とは借りのある者を指す。輪廻転生を説く佛教において概ね前世に遭遇したであろう、そのような様々な関係性を指す概念だが、広義で今生での関わり合いも含めて語られることもある。今まで気が遠くなるくらい輪廻転生を繰り返したであろう我々には、それこそ気が遠くなるような関係性の複雑系が存在しており、それらを総称して冤親債主と呼ぶわけである。そうした冤親債主と今生で再会したとき、それぞれの前世での関係性が今生での人間関係に影響するのだ。だからこそ我々はなるべくそうした悪い関係を清算し他者と良い関係を築くことで来世を少しでも良いものにしていきたい、という考えがある一方で、佛教徒が目標とする輪廻転生からの解脱には自分が誰かの冤親債主になってしまうほどの強い念(即ちこの世への未練、執着となるもの)を抱かないよう心を修めて行かなければならないとする考えもある。
佛教は因果応報を説く。良い行いには良い報いを、悪い行いには悪い報いを、ということである。しかし生きていて、必ずしもそんな単純には行かないのは誰もが思うところだろう。ただ単に運が良かったり、悪かったりするように感じられることなど幾らでもある。しかし物理学のように全ての物事に因果が存在すると考えるなら、単なる偶然に見える物事にも何か理由や意味があるかも知れないと推論するのが自然となる。そこで前世因果としての冤親債主という考え方で説明されることがある。
前世以前に関係性があったものの今生を共に出来なかった冤親債主は、現世において我々の生活に様々な影響を及ぼすものと信じられている。なんとなく上手く行かないときは、もしかしたら自分に恨みを持つ者が自分に取り憑いていて、足を引っ張っているのかも知れない。なんとなく上手く行っているときは、もしかしたらご先祖様(これも冤親債主と言える)が守ってくれているのかも知れない。冤親債主は何も人間とは限らない。動物や、あるいは目に見えない霊的な何かもこれに含まれることがある。世の中のありとあらゆる関係性が様々な形で人生に影響を及ぼし合い、終わりのない因果の糸がより複雑に絡み合って未来永劫続いていく、というのが佛教的宇宙観とも言える。
台湾では、道教と佛教が同時に信仰されることがある。道士は悪い霊を追い払ってくれるが、除霊が困難なものに「因果業」と呼ばれるものがある。払っても払っても、それはその人のもとに戻ってくる。まるで借金取りみたいに返済が完了するまで何度でもやってきて、体調を崩したり運を低下させたり疫病神のように振る舞うわけだ。これを佛教的に表現するなら、冤親債主の中で冤の前世因果(冤家とも言う)なのだろう。恨みの力が強ければ強いほど、それはいつまでも付きまとってくる。また、ひとつの冤家が取り立て終えて満足して居なくなったとしても、また別の冤家が現れて違う取り立てを始めることもある。人生何をやっても上手く行かないような人間は、きっとそうしたものが背後に沢山あると考えれば、ひとつの理屈にはなる。
それでは、冤家にはとことん邪魔されなければならないのか。佛教的に、そこから逃れるには「回向(えこう)」が大事だ、ということになる。回向をなるべく簡単に説明すると、自分の積んだ功徳(≒功績)を自分以外の誰かに(または森羅万象に)お返しする、というものである。例えば善行を積んだとして、その功を自分が誇示するのではなく、これはみなさんのお陰なのでみなさんの功績なのですと譲る、その心がけが回向と言える。つまり良い行いによる徳を自分ではなく冤家にお返ししますよ、という意識を続けることで、冤家の恨みを少しずつ解かせるかも知れない、ということである。気が遠くなりそうなことだが、佛教徒の中には、例えばお経を読んだり法会に参加したりして、それで積まれた功徳をすべて冤家にお返ししようとする向きもある。しかしこれが功利心のような意識で冤家の恨みを晴らすためにやっているんだ、という念が強すぎる状態でお経やお祈りをやられてもあまり意味が無いとも言われるのだから、難しいところである。また、実際は自分もまた相手にとっての冤家だったりするのだから、中々そんな相手に対して功を譲るような気持ちになりにくいこともある。それも含めて、心持ちからよくよく修めて行くのが佛教徒が修行と呼ぶものであろう。
地蔵菩薩は「地獄が空にならなければ自らは成仏せず」というコンセプトだが、全ての時空に存在する全ての冤親債主が冤親債主でなくならない限り実現しないのだから、まるで不可能なことに挑戦するような壮絶さを感じるのは自分だけだろうか。
以上、帰依法名を2つも頂いておいて別にそこまでガチな佛教徒ではないと嘯くおいらの浅い見識でした。御笑覧頂けたのであれば幸いです。