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チャンプ的脳内おっきage♪ #64

「冤親債主」について

 台湾佛教を背景にする家族と付き合うとき、たまに「冤親債主(おんしんさいしゅ)」という言葉に出くわす。これに関して、過去に人類学者の卵として宗教と文化の関連する分野で研究していた見地から、これまで見聞きしてきた知見を整理して知り得たところを解説したいと思う。勿論、佛教には八万四千の法門ありと云い、自分がここで記すのはあくまでも自分によるひとつの解釈であり、宗派や経験、体得したものが違えば異なる解釈が生じ、そしてそれらは互いに否定するものではないことを追記しておく。
 冤親債主という言葉は、大般涅槃経という釈迦の入滅を叙述した経典に記載された概念である。冤とは恨みを持つ者、親とは親愛の感情を抱く者、債とは貸しのある者、主とは借りのある者を指す。輪廻転生を説く佛教において概ね前世に遭遇したであろう、そのような様々な関係性を指す概念だが、広義で今生での関わり合いも含めて語られることもある。今まで気が遠くなるくらい輪廻転生を繰り返したであろう我々には、それこそ気が遠くなるような関係性の複雑系が存在しており、それらを総称して冤親債主と呼ぶわけである。そうした冤親債主と今生で再会したとき、それぞれの前世での関係性が今生での人間関係に影響するのだ。だからこそ我々はなるべくそうした悪い関係を清算し他者と良い関係を築くことで来世を少しでも良いものにしていきたい、という考えがある一方で、佛教徒が目標とする輪廻転生からの解脱には自分が誰かの冤親債主になってしまうほどの強い念(即ちこの世への未練、執着となるもの)を抱かないよう心を修めて行かなければならないとする考えもある。
 佛教は因果応報を説く。良い行いには良い報いを、悪い行いには悪い報いを、ということである。しかし生きていて、必ずしもそんな単純には行かないのは誰もが思うところだろう。ただ単に運が良かったり、悪かったりするように感じられることなど幾らでもある。しかし物理学のように全ての物事に因果が存在すると考えるなら、単なる偶然に見える物事にも何か理由や意味があるかも知れないと推論するのが自然となる。そこで前世因果としての冤親債主という考え方で説明されることがある。
 前世以前に関係性があったものの今生を共に出来なかった冤親債主は、現世において我々の生活に様々な影響を及ぼすものと信じられている。なんとなく上手く行かないときは、もしかしたら自分に恨みを持つ者が自分に取り憑いていて、足を引っ張っているのかも知れない。なんとなく上手く行っているときは、もしかしたらご先祖様(これも冤親債主と言える)が守ってくれているのかも知れない。冤親債主は何も人間とは限らない。動物や、あるいは目に見えない霊的な何かもこれに含まれることがある。世の中のありとあらゆる関係性が様々な形で人生に影響を及ぼし合い、終わりのない因果の糸がより複雑に絡み合って未来永劫続いていく、というのが佛教的宇宙観とも言える。
 台湾では、道教と佛教が同時に信仰されることがある。道士は悪い霊を追い払ってくれるが、除霊が困難なものに「因果業」と呼ばれるものがある。払っても払っても、それはその人のもとに戻ってくる。まるで借金取りみたいに返済が完了するまで何度でもやってきて、体調を崩したり運を低下させたり疫病神のように振る舞うわけだ。これを佛教的に表現するなら、冤親債主の中で冤の前世因果(冤家とも言う)なのだろう。恨みの力が強ければ強いほど、それはいつまでも付きまとってくる。また、ひとつの冤家が取り立て終えて満足して居なくなったとしても、また別の冤家が現れて違う取り立てを始めることもある。人生何をやっても上手く行かないような人間は、きっとそうしたものが背後に沢山あると考えれば、ひとつの理屈にはなる。
 それでは、冤家にはとことん邪魔されなければならないのか。佛教的に、そこから逃れるには「回向(えこう)」が大事だ、ということになる。回向をなるべく簡単に説明すると、自分の積んだ功徳(≒功績)を自分以外の誰かに(または森羅万象に)お返しする、というものである。例えば善行を積んだとして、その功を自分が誇示するのではなく、これはみなさんのお陰なのでみなさんの功績なのですと譲る、その心がけが回向と言える。つまり良い行いによる徳を自分ではなく冤家にお返ししますよ、という意識を続けることで、冤家の恨みを少しずつ解かせるかも知れない、ということである。気が遠くなりそうなことだが、佛教徒の中には、例えばお経を読んだり法会に参加したりして、それで積まれた功徳をすべて冤家にお返ししようとする向きもある。しかしこれが功利心のような意識で冤家の恨みを晴らすためにやっているんだ、という念が強すぎる状態でお経やお祈りをやられてもあまり意味が無いとも言われるのだから、難しいところである。また、実際は自分もまた相手にとっての冤家だったりするのだから、中々そんな相手に対して功を譲るような気持ちになりにくいこともある。それも含めて、心持ちからよくよく修めて行くのが佛教徒が修行と呼ぶものであろう。
 地蔵菩薩は「地獄が空にならなければ自らは成仏せず」というコンセプトだが、全ての時空に存在する全ての冤親債主が冤親債主でなくならない限り実現しないのだから、まるで不可能なことに挑戦するような壮絶さを感じるのは自分だけだろうか。
 以上、帰依法名を2つも頂いておいて別にそこまでガチな佛教徒ではないと嘯くおいらの浅い見識でした。御笑覧頂けたのであれば幸いです。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #63

肩書き「弁士」に物申す

 政治家の方が街中の広告のぼりに肩書きとして「弁士」と表記するのをよく見かける。個人的に如何なものかと思うため、以下に思うところを書き記す。
 これはただの感想だが、弁士と言うと、とてつもなく胡散臭い、胡乱気なイメージを持ってしまう。何せ、これは国家資格でも何でもなく、また何かのスキルを証明する物でも無い。読んで字の如く、弁舌を行う者、と言う程度の意味でしかないのだ。学識や経験など関係なく、とにかく舌先三寸で何かを何とかするという実に薄っぺらい人物アピール。こんな肩書きで、どうして人の信任を得られると思うのか?弁が立つと自称するだけの人間の一体何を信じれば良いと言うのか?
 他の肩書きではダメなのだろうか。実際に国家資格があるなら「弁護士」「医師」「行政書士」「税理士」などを名乗るだけで「その道の専門家なんだな、関連する政策について詳しいかも知れないな」と有権者に思わせることが出来るだろう。資格を持たないなら、職位を表記すれば良い。何処かで高市早苗大臣が「弁士」と表記するのぼりを見かけたが、大臣職ならば「防衛大臣」「厚生労働大臣」などとすれば良いでは無いか。別に経歴でも良い。何処かで確か安倍元総理も「弁士」って書いて居たのを見た気がするが、どうして「元総理大臣」表記ではいけないのか。あるいは「会社社長」とかでも良い。なんでそこを敢えて「弁士」と書くのだろう?弁士って肩書き、個人的に凄く気持ちが悪い。
 どうして政治家や選挙候補者は「弁士」と言う自らのイメージを落とすような肩書きを使うのだろう。そこにもし何かの意図や歴史があるなら、是非教えて頂きたい。そうでなければ、少なくとも自分は「なんでかなぁ」と首を傾げ続けてしまう。
 そういえば、ドクター・中松は「発明家」って肩書きを名乗って居たな。
 ええやないか。得体の知れない「弁士」よりは、余程素直で好感持てる。
 与党の皆さんも野党の皆さんも、弁士って怪しさ爆発の肩書き、やめませんか?w
 もちろん表現の自由があるので別にいいんですけど...ね。
 以上、はい、すべてただの感想でした。

ーーー

 ところで、台湾語でワンタンのことを「べんし(扁食)」って言います。
 薄っぺらい皮がこれまた美味です。久々に台湾のおっきなべんしが食いたい♪
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チャンプ的脳内おっきage♪ #62

高齢者・年長者との関係に見る、日本と台湾の違い

 「老いては子に従え」と、日本で良く使われる言葉がある。高齢者の診療でたまに耳することがあり、また日本人である妻の母親も少し前にこの言葉を笑いながら発していたので、一般に浸透した考え方なのだろうと推測する。もともとは中国儒教、孔子の「礼記」や仏典の「大智度論」で表現される「三従」という考え方で、女性の生き方に対して「若い時は親に従い、盛りにしては夫に従い、老いては子に従う」と説いたものだ。現代日本では主に最後の「老いては子に従え」の部分だけ強調されて、男性にもその考え方を適用する方が多い印象だ。
 かつて、台湾人で少し年長な女性に「日本では老いては子に従えって言葉がよく使われている」と伝えたところ、女性は怒って「とんでもない話だ、バカバカしい」と拒絶的な反応を見せた。この女性は台湾の一流大学を出ており、しかも極めて敬虔な仏教徒で仏典も宗教学者ばりにかなり読み込んでいたにも関わらず、この反応が返ってきたのだ。思うに、台湾では儒教でも明代に隆盛を見せた朱子学の影響が強いのだろう。朱子学では社会秩序、例えば長幼の序や目上に対する礼儀を殊更に重視する趣が強いように感じられ、こと人民統治においては有利に働くので、科挙で必須になるくらい当時の為政者達に重要視され、後の中華文化に多大な影響を及ぼすほどに浸透したのだろう。日本においても江戸時代に朱子学が紹介され、日本の文化をどんどんつまらなく(俺の主観ですw)閉鎖的な(俺の主観ですw)方向に改悪(俺の主観ですw)して行ったが、それでも日本古来のおおらかな文化風土の中で、より古い礼記の精神が残って行ったのかも知れない。そのためだろうか、日本の特に地方では今でも実に慎ましい高齢者の方が多い。彼らは口々に「子供や若い世代に迷惑を掛けないようにしなければ」と話す。東日本大震災に罹災した高齢女性が津波から逃げる途中で助けの手を差し伸べられたとき、高齢者を助けていたらみんな巻き込まれるから助けるなと断ったエピソードも印象深い(こちらは「津波てんでんこ」の考え方の方が強いかも知れないが)。
 そんな日本における高齢者の立ち位置が、台湾出身の俺からすると却って行き過ぎた高齢者軽視に見えてしまうことがある。俺は小さいころから年長者、高齢者は敬うべきと教わり、また自分を育てる過程で苦労する姿を見て両親に感謝の念を抱くのは当たり前で、また可能な限り報わなければならないという感覚を育んできた。勿論日本でもそういう風な教えはあるだろうが、それでも周りの日本人の親に対する接し方、扱い方を見ている中で、やはりなんとなく自分の育ってきた感覚にそぐわない部分はある。また病院診療でも、要介護の親に辛くあたる子供世代、療養病棟や老人介護施設に放り込んだままほとんど見舞いに来ない家族、あるいは年金受給のために廃人同然の親を無理矢理延命させろと迫るケースなどに多々出くわしていく中で、日本人はあまり高齢者を大事にしておらず、また高齢者もそれを当然としている割合が多いのかもなと感じる(ただの感想)。姥捨て山、なんていう日本語の表現もあり、ネット上でも高齢者を社会のお荷物として扱う言論が常見される。
 俺は台湾で育っておらず、住んでもいないので、向こうの一般的な高齢者事情がどうかは分からない(だから上記は別にデータに基いて話しているものではなく、あくまでも個人的感覚の話だ)。きっと台湾でも高齢者に辛く当たる家族なんてごまんといるだろうし、日本でも高齢者を大事にする人は多いだろうから、単純に比較できる話でもない。ただ、台湾の親戚たちの周囲を見聞きした経験や、時々台湾へ行ったときに感じる文化風土などからも、日本にいる肌感覚と比較して高齢者に対する空気感の差異は感じるものである。勿論いろんな家族・事情・立場があり一概に言うことではないが、俺の中では台湾の年長者は家の一番大きな椅子に座ってデーンとふんぞり返り、家族全員それを守り奉っているイメージがあるのに対して、日本の年長者は成金や荒事稼業の者でない限り腰を低く曲げて他者との衝突を避け、地方であれば盆正月すら帰ってこないかもしれない家族をひたすら想い続けているようなイメージがある。
 これは、どっちが良いとか、だから何だとか、そういう話ではない。あくまでも今までなんとなく思って感じてきたことを自分がスッキリするために、どうにか言語化して書いてみたものである。我が両親は台湾人であり、妻の親は日本人なので、まぁみんな日本国籍なので国際結婚とは厳密には言えないのだが、違う文化背景を持つ両家の間でどのように違いを認識して考えて行くのかを意識しながら、両家親世代も含めた家庭円満を目指して行きたいものだ。まぁ、今度親父やおふくろに「日本では老いては子に従うモンだぞ」って言うのも一興か(やめれw
 以上「おまえの周りではそうなんだろうな」に終始した話でしたとさw
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チャンプ的脳内おっきage♪ #61

ポリコレと表現の自由

 AmazonPrimeでロード・オブ・ザ・リング「力の指輪」が公開され、いわゆるポリコレ的表現手法に対してネットでは公開前から喧々諤々と議論の嵐が巻き起こっている。指輪物語の原典に対して狂信者然とした俺の感覚で言うと、やはり原典無視・改変した表現には心中穏やかではいられないが、果たしてそれを強く批判することは、表現の自由を重視する普段の俺と矛盾は無いのだろうか?
 と言うわけで、ポリコレと表現の自由について考えてみた。
 そう、ポリコレによる原作改変表現と表現の自由は、慎重に議論しないといけない分野なのだ。まず、原作改変表現は表現の自由によって保証されている。そしてそれにより既にある原作自体の価値が変わるわけでもない。しかし表現されたものを好きになるのを強要するのは間違っていて、嫌悪・批判を加えるのもまた自由でなければならない。
 ここで問題は、たとえば黒人エルフを批判するのが差別にあたるかどうか?
 黒人はエルフを演じてはいけないとするのは、差別である。例えば日本人俳優だけで指輪物語の演劇をやれない、やってはいけないのか?という話になる。しかし、原作に黒人エルフは存在しないから原典に忠実ではないと指摘、それで作品を嫌うのは差別ではないだろう。
 「だけど今まで設定されてなかっただけで、黒人エルフがいてもいいんじゃない?」
 「いいよ。でも自分は原作に忠実な作品が好きだからその設定は嫌い、観ない」
 これは差別でもなんでもなく、原作に忠実かどうかを好き嫌いの基準としているので、黒人そのものを差別しているのとは違う姿勢だろう。まぁどちらにしても俺は最後まで観てから好きか嫌いかを決めるつもりだが、こうした作品との向き合い方もまた自由である。
 以上、自分の考えを整理してみた。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #60

学歴vs経験、そして格差

 とある若者が格差解消のカギとして「学歴より経験を重視した社会を」と提唱したことに対し、ネットで炎上しているのを見かける。実際のところ、留学経験だとかボランティア活動だとか、今の会社人事や大学等が求める類の「経験」と言うのは金やコネを使って得られるものであり、それを重視したところで格差を無くすことが出来るわけではないと思う。学歴より経歴と提唱している方の経歴も結局実家がある程度太くないと得られない道をたどっており、こんな風にええとこの坊ちゃん嬢ちゃんが格差解消を唱えるのは自身が出身階級から受けてきた恩恵を理解出来ていない証左で、些か思慮が浅いと感じる。階級闘争を仕掛けられている側の人間が自らクビを差し出すかのような、そんな滑稽さすらある。そう言う意味では、勿論受験も経済的優位が教育の質に反映される以上決してフェアな勝負ではないが、本人の勉学という努力と才覚が必要な分、ペーパーテストの方が公正ではある。
 社会的弱者に対するセーフティネットは必要だが、格差の否定まで行くと、それは資本主義の否定で、全体主義・共産主義的な思想となる。個人的には、社会的強者に必要なのは非現実的な幻想的平等精神ではなく、むしろ強者であることを自覚した上でのノブレスオブリージュだと思う。富める者は富めるが故に社会に対するより大きな期待と責任を負い、君子・庇護者としての振る舞いを心掛けるよう良質な教育を受け、その富を社会的幸福に還元していく意識と矜持を持つべきと考える。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #59

The trap of religion (宗教の罠)

 Religion. While it emphasizes on harmony, people use it as a tool of criticism and mockery. While it preaches about inner peace, people find unrest when they see things different from their beliefs. While it calles for wisdom and mindfulness, people simply stops thinking and blindfolds themselves to the diverse values and perspectives of life, thus petrifying their senses to concrete.

 宗教。調和を強調するが、人はそれを批判や嘲笑の道具に使う。心の平穏を伝えるが、人は信仰と異なる物事を見ると心を荒立てる。智慧と内観を尊ぶが、人は単に思考停止し、生の多様な価値や視座に目を瞑り、斯くして感性をコンクリートのように硬直化させる。

 Sometimes, religion could be toxic, especially when you let religion totally define who and what you are. Ironically, surrendering yourself to be chain-bound by religion always seems to be the easier way, while religion expresses to free you of mind and soul.

 時として、宗教は中毒性を帯びる。特に、自己というものを全て宗教に規定させた場合に。皮肉にも、そうやって自身を宗教に明け渡し、その鎖に縛られることは常に楽な道として提示される。宗教が心と魂の解放を謳っているにも関わらず。

 Some of the most unforgiving and harsh people I met in my life, were the most religious people. Of course, most were extremely generous and kind.

 人生で出会った最も不寛容で苛烈な人達の中には、最も宗教的な人達も含まれていたのだ。勿論、大部分が非常に誠実で優しい人達ではあったが。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #58

ウィル・スミスのビンタ考

 アカデミー賞における大俳優ウィル・スミスのビンタに関して現在賛否両論百家争鳴の様相を呈している。興味深いのは日本語の多いスレでは「賛」がかなり多くて「容姿いじり最悪!ビンタされて当然!」という論調が支配的だが、英語の多いスレでは「否」がかなり多く、むしろビンタしたウィル・スミスがかなり批判されている点だ。それは何故だろうか?
 実際にクリス・ロックがジェイダの円形脱毛症に起因する髪型を滑稽と捉えた文脈で揶揄したものであれば本当に最悪であり、しかも「that was a nice one(上手いジョークだったろ)」と追い討ちかけたのであれば、まさに超鬼畜レベルの嘲笑となる。それに周囲が同調して笑ったのであれば、マジでアメリカ人の思考はどうなってんのよ!?ポリコレは滅んだ!となる。果たしてクリス・ロックはジェイダの円形脱毛症を知っていたか否か?
 しかし実は注意深くこのやり取りを見ていると、真逆にポジティブなメッセージとして受け取ることも不可能ではない。もしもクリス・ロックが「ジェイダは円形脱毛症だけどウィッグを着用せず、インスタに写真堂々と載せて”このスキンヘッドが人にどう思われようと気にしないわ!”って言い切るとかマジでcoolだぜ!理不尽に立ち向かう決意で剃毛したGIジェーンというカッコ良さのアイコンに喩えて賞賛ネタにしたろ!ポリコレ的にもnice oneやろ!」という文脈で「ジェイダ大好きだ!次のGIジェーンだよな、待ちきれないぜ!どや!」という例のジョークを出したのだとしたら、そして周囲もそんな風に受け取ってウケていたのだとしたら(実は自分も最初そういう風に思った)、事態はウイル・スミス側の独り相撲で、むしろポリコレ的な思考法に沿ったユーモアだったのを理解せず悪い方向に受け取って暴力行為に出たこととなり、ポリコレが今まで必死に否定したかった「黒人は暴力的・短絡的」というステロタイプ通りの行動に出たウィル・スミスは悪者扱いされて当然になる。即ち、これは日頃の教養やリテラシーが問われる事象ということになる。
 上記は全てさておいても、相手の真意を確認せず暴力行為に出たことは欧米では批判の対象ではあり、なんらかの処罰が下される可能性が生じるのだろう。日本では「言葉で殴られたのだから実際に殴り返して良い」という論調も見られるが、実際物理的に殴られても殴り返さず警察呼ぶのが正解だ、文明人なんだからまずはコミュニケーションを取ったらどうだ、という価値観が支配的な場所では通用しない、といったところだろう。しかしどちらにしても、容姿でイジるのは相手に様々な背景があり得るので、極めて危険ではある。この点に関しては、クリス・ロックのネタ選択は軽率だったとは思うし、仮にポジティブな意図だったとしてもそれがウィルに伝わらなかった時点でネタとしては失敗なので、そこは認めても良いんじゃ無いかと思う。
 また、個人的には、仮にクリス・ロックが賞賛の文脈でジョークを発したものであり、ウィル・スミスの一方的な独り相撲での暴力だったとしても、主演男優賞の剥奪には反対である。賞は演劇内容、芸術に対する評価で、その評価が演じていた人の人格や行動で左右されるのは芸術・演劇の敗北で、それこそ、差別になると思う。せめて、賞金の没収あたりに止めるのが落とし所では無いだろうか。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #57

ウクライナ動乱、所感

 ウクライナ動乱に関して、俺の悲観的な予想は見事に外れた。外れてくれて、個人的には良かったと思いたい。しかし客観的、中長期的に動乱の顛末が人類の歴史においてどうプラスに、どうマイナスに作用するかまでは明答出来ない。現時点でウクライナ政府は健在であり、プーチン大統領がヒトラーに例えられるなど破滅的独裁者として喧伝認知される一方、ゼレンスキー大統領は時の人として一部で英雄視されつつあるのは確かだと言える。
 俺はもっとスマートにロシアが作戦を遂行し、数日程度で首都キエフが陥落し、ウクライナ政府側は組織的抵抗が出来ないまま政権転覆すると思っていた。少なくとも、ロシアの狙いはそこにあり、用意周到に侵攻作戦を練り込んでいたものと読んでいた。でなければ、敢えて侵略の愚を犯すメリットは皆無である筈だ。
 事実としてロシアの軍事力、技術力、諜報能力はウクライナを凌駕しており、以下の段階までは迅速に完了するだろうと開戦時に俺は思い込んでいた。

 1・サイバー攻撃で通信インフラを妨害。
 2・ウクライナ首都の各省庁など政治中枢に誘導ミサイルを撃ち込んで指揮系統を混乱ないし麻痺させる。
 3・スペツナズなど最精鋭特殊部隊を空挺部隊と共に送り込んで首脳を拘束ないし殺害(英雄的な発信をされる前に)。
 4・上記の首都強襲部隊と同時に機甲化部隊をブリッツクリークよろしく進発させて、可及的速やかに首都への補給路を確保防衛しロジスティクスを最適化する。
5・キエフに臨時傀儡政権の擁立を内外に宣言。

 その後はウクライナ側のレジスタンスによるゲリラ戦が続き、アフガニスタンよろしく泥沼化するだろう。ウクライナ軍残党を中心とした抵抗活動が上手くまとまって組織化出来れば、南西部あたりで反ロシア政権が成立するかも知れない。その過程で国際社会が様々な制裁をロシアに課し、西側に支援されたゲリラ達の激しい抵抗もあってロシアの継戦コストが重く伸し掛かっていくため、ロシアに取ってあわよくば傀儡政権が既成事実化した時点で停戦が成立、ウクライナはドニエプル川あたりで分割されて、ロシアに取って象徴的都市であるキエフ、ハリコフなどを含める主要都市の大半を抑えた親ロシア政権と、比較的劣勢な西ウクライナに分かれる。西側がオデッサなどドニエプル以西の主要経済圏をどれだけ保持出来るかで後の展望が変わるだろう。その後ロシアはソ連復活を宣言、かつての共産主義国家として再スタートを切る。
 こうして東西冷戦再来の構図となりつつある最中で、遂に中国は軟弱な西側恐れるに足らず、核の盾をかざせば直接的軍事衝突は無いと読んで、台湾進攻に踏み切るのだ。悲願の両岸統一と、以前から2035年までに完成させると謳っていた北京と台北の直通鉄道建設を実現するために。そして西側の直接的軍事支援を受けられない台湾は圧倒的物量の前に膝を折り、日本は北をロシア、南を中国に挟まれた孤立無援の局面に陥る。遂に2050年、日本は東北地方と北海道をロシアに、それより西側を中国に分割され、日本共産党が党是として掲げた通り天皇制は廃止。危機感を募らせた西側諸国では右傾化が加速し、東西陣営の間では不可逆的に緊張が高まっていく。2070年、核戦争の様相を帯びた世界大戦が遂に勃発し、緒戦の戦術核攻撃を生き延びた日本人は、共産圏の尖兵となり果てた姿で再びアメリカ人と第二次太平洋戦争で殺し合うのだ。そして遂に、劣勢に立たされたどちらかの陣営から、戦略核のボタンが押され...
 2070年と言えば、俺は生きていれば91歳。妻は88歳。子は49歳になる。こんな未来を見てしまう、見せてしまう可能性を、俺は危惧していたのだ。ウクライナ人の奮闘は、その悲劇的な未来を回避出来る、希望の光として俺の目に映るのである。彼らの犠牲は感謝されるべきで、国際社会の更なる支援を期待したい。
 それにしても、プーチン大統領やロシア軍は一体どうしたんだろう?あれだけ悲観的な予想を俺させるくらい、彼我の戦力差は圧倒的だったはずだ。何故ここまで手こずっているのか、理解に苦しむ。

 仮説1・西側の情報統制でロシア側からの視点がシャットアウトされており、西側に有利な情報しか流れて来ていない。実際は、ロシア優勢に推移している。
 仮説2・ロシア軍の質からすれば考えられないほど本当に稚拙な作戦計画で、愚昧な指揮のもと無駄に兵や物資を浪費している。
 仮説3・実は公表されている以上に西側からの支援が行き届いており、ロシアの計画をことごとく覆している。スペツナズは西側の特殊部隊の活躍により要人暗殺に失敗し続けている。ミサイルも実は迎撃システムが運び込まれている。ポーランドの空軍基地にウクライナ空軍機が収容され密かに出撃している。

 このあたりかなぁ...どちらにしても、今一番怖いのは、核の使用に他ならない。既に原発攻撃という暴挙は果たされており、そのような輩が核攻撃を躊躇するようには思えない。あるいは、阻止は可能なのか。今後も推移を見守りたい。
 以上、妄想癖の激しい俺の駄文にここまで付き合って下さった貴方の時間を無駄にして、すいませんでした&ラヴ&ピース!!
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チャンプ的脳内おっきage♪ #56

アストラゼネカ社製の新型コロナワクチンについて

 アストラゼネカ社製の新型コロナワクチンについて、接種した後に致死的な血栓症が発生した、などと某所で騒がれているみたいです。これは私の専門分野ではないので内容間違っているかもしれませんが、肺血栓、脳塞栓の疫学を調べてみますと:

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肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断,治療,予防に関するガイドライン(2017年改訂版)より抜粋

1.3 疫学 2006年のわが国における発症数は7,864人で,10年間に2.25倍に増加しており39),人口100万人あたり62人と推定される.

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日本脳卒中学会HPより抜粋

脳梗塞の正確な発症率は不明であるが、大まかに人口10万対100〜200、そのうちラクナ梗塞38.8%、アテローム血栓性脳梗塞33.3%、心原性脳塞栓症21.8%、その他6.1%.

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 アストラゼネカ社製のワクチンは既に1700万人以上に接種されているので、そりゃぁ1700万人中で相当数の塞栓症などが発生していたとしてもおかしくないような。しかも海外における塞栓症の発症率は日本より更に高いのですから、病態生理的に塞栓症との関連性が証明されるまで、関連ありって騒ぐのは尚早だと思います。
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チャンプ的脳内おっきage♪ #55

平等と多様性

 人類はまだ、平等と多様性を共存させられるほど成熟していない。平等を達成するのに多様性を犠牲にして、多様性を確保するのに排他を認めざるを得ないのが現状だ。人種、出身、性別の間にどうしても存在する「違い」を「不平等」と被害的に捉えてしまうケースの、なんと多いことか。その延長で様々な伝統的価値観を差別的と糾弾し、結果全体主義的な構造がそれと認識されないまま推し進められてしまう構造があるように見える。文化大革命的な社会的圧力を自由平等主義者が醸成してしまうという状況は、まさに皮肉だ。
 例えば、ポリティカルコレクトネスに基づいた言葉狩り、性的搾取という名のエロティシズム否定、男性性や女性性に対する忌避、表現規制など、こうしたトレンドが行きつく先は、思想や行動の中性的均質化に思える。そんなものが実現した暁には、きっと没個性的で無味乾燥とした面白味のない世界が誕生してしまうだろう。もしかしたら、もはや人類は滅亡しロボットが世界を支配しているのかも知れない。
 人間というのは、未だ往々にして共存と融合を混同する程度に融通が利かないのと、自分を不快にする存在を許せず、それらを根絶した先に平等があると感じる傾向があるように思える。多様性を認め尊重した上で、多様であるがまま共存出来るような未来は、まだまだ遥か遠いように思える。
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